中村区・今昔散歩(歴史)
 中村区の今とむかしを訪ねます。
 記事の内容に誤りがあるとき、また加筆補正したほうが良い場合、及び他に取り上げてほしいところがあればお申し出ください。(Web管理人 鈴木
  目  次
はじめに
1 中村区の地形
2 地名「中村」の由来
3 行政区変遷
4 中村区内難読地名
5 「秀吉」関連地名
6 中村区の名所旧跡(中村区の歴史)
  a.豊国神社
  b.中村の大鳥居
  c.名古屋駅前
  d.佐屋街道
  e.岩塚・七所社
  f.古代東海道、中世東海道
  g.横井山
  h.中村遊廓跡
  i.稲葉地配水塔
  j.笈瀬川・笈瀬通り
  k.向野(こうや)跨線橋
  l.愛知県愛知郡愛知町の愛知駅
  m.柳街道

はじめに
 大正9年から現在までの地図をお楽しみください。
  (アクティブコンテンツは許可してください)
今昔マップ(中村区)

1 中村区の地形
<規模>
 中村区は東西約5.6km、南北約5.0kmで、区の面積は16.3平方km。人口は約13万5千人(約6万8千世帯)。
<緯度・経度>
 中村区の象徴的建造物「大鳥居」は、
東経136度51分17秒、北緯35度10分07秒の位置にある。
<地形>
 中村区は「名古屋台地(熱田台地とも)」西側の低地帯にあり、縄文時代は海であったが、徐々に海岸線の後退と、木曽川、庄内川の土砂堆積により陸地となった。
 したがって、人工的なものを除いて区内には丘や山はほとんど無い。ただ唯一「横井山」と呼ばれる庄内川の砂堆による小丘が横井町にある。
<標高>
 現在の標高は、南部の「八社」「並木」「烏森」あたりで0〜1m、北に進むにつれて少しずつ高くなるが、北部の「日比津」「栄生」あたりでも2〜3m程度である。
 したがって、かつては大小河川の乱流地域であったが、現在は河川改修が進んでおり、小さな川は統合されたり、暗渠化されて地表に出なくなったりしている。特に生活排水河川は、下水道整備により埋め立てられたりした。
 中村区はもともと低地稲作農業地帯であり、あちこちに農村集落が点在していた。
<区境界>
 北部と西部は、庄内川が区境界となり旧西枇杷島町(現清須市)、旧新川町(現清須市)、旧甚目寺町(現あま市)、大治町、中川区旧富田町(合併前は海部郡富田町)地区に接している。
 北東部は、JR東海道本線が区境界として西区に接しており、東部は堀川を区境界として中区に接している。
 また、南部はほぼJR関西本線を区境界として中川区に接しているが、一部庄内川の旧河川湾曲部により中川区旧富田町地区に接している。

2 地名「中村」の由来
 1921年(T.10年)に名古屋市に合併するまでは、愛知郡中村("中"という村)であった。
 合併して西区中村町となり、1937年(S.12年)の分区にあたり中村区の命名の基となった。
 "中"の由来については、いろんな説がありよくわかっていないが、私は鎌倉街道の宿駅と宿駅の中間地点だったからではないかと推測している。
中村区北西部(T09年)中村区北東部(T09年)
中村区南西部(T09年)中村区南東部(T09年)

3 行政区変遷
 幾多の変遷はあるものの、概ね明治初期まで庄内川の東側を愛知郡、西側を海東郡(現海部郡)としていた。(江戸期初期に庄内川の流路を変えたため、旧流路が境界)
・行政区変遷一覧表(「名駅」地区は変遷が複雑なため割愛した)
明治初期1876年
(明09)
1889年
(明22)
1906年
(明39)
1921年
(大10)
1937年
(昭12)
1944年
(昭19)
大秋村則武村鷹場村"中"村西区中村区
(創設)
中村区
(主に鉄道線路で
区界としたため旧
鷹場村の一部が西
区へ)
中島村
中野高畑村
さこー
 榮 村
さこー
 榮 村
日比津村日比津村日比津村
上中村上中村おりとよ
織 豊 村
下中村下中村
稲葉地村稲葉地村
牧野村牧野村笈瀬村1904年
(町制)
愛知町
中区
米野村米野村
平野村平野村
 (露橋村)中川区
 (日置村)
 (北一色村)
岩塚村岩塚村岩塚村常盤村中川区
(創設)
中村区
烏森村烏森村やなもり
柳 森 村
高須賀村高須賀村
 (八田村)中川区
  (松葉村)
横井村横井村御厨村荒子村南区中村区
・1876(明治9年)に次のとおり合併。
 「則武村」<=「大秋村」「中島村」「中野高畑村」
・1889(明治22年)に次のとおり合併。
 「鷹場村」<=「榮(さこー)村」「則武村」
 「織豊村」<=「稲葉地村」「上中村」「下中村」
 (織豊は織田豊臣の意。稲葉地には信長が手習いに通った凌雲寺がある)
 「笈瀬村」<=「牧野村」「米野村」「平野村」(露橋村)(日置村)(北一色村)
  (笈瀬村は1904年に愛知郡「愛知町」と町制敷く)
  (旧平野村は1930年ころ、「笹島操車場」建設のため消滅)
 「柳森村」<=「烏森村」「高須賀村」(八田村)(万町村)
・1906年(明治39年)に次のとおり合併。
 「中村」<=「鷹場村」「織豊村」「日比津村」
 「常盤村」<=「岩塚村」「柳森村」(松葉村)
・1921年(大正10年)に庄内川東側の愛知郡は名古屋市に合併した。
 愛知郡"中"村は西区に編入され、旧村名は「西区中村町」「西区日比津町」「西区栄生町」「西区稲葉地町」などとなった。
 愛知郡常盤村、愛知郡愛知町は中区に編入され、それぞれ「中区岩塚町」「中区烏森町」「中区牧野町」などとなった。
・1937年(昭和12年)に中村区と中川区が創設された。
・1944年(昭和19年)区境界が変更され、ほぼ今の区境界となった。

4 中村区内難読地名
 【泥江町】ひじえちょう
   新表示施行で消滅。交差点名として残。現在の名駅4丁目付近。
 【禰宜町】ねぎちょう
   新表示施行で消滅。現在の名駅南1丁目付近。
 【水主町】かこまち
   新表示施行で消滅。交差点名として残。現在の名駅南3・5丁
   目付近。
 【栄生町】さこうちょう(行政上の読みは「さこちょう」らしい)
   古くは「さこ」の地名に「栄」の1文字をあてたものが、「さ
   こー」と転訛し、さらにその読みに合わせて「生」の字が加わ
   ったものと思われる。大正時代までは「榮(さこー)村」であ
   った。
   (「さこ」とは狭い道や、狭い土地のこと。近くに「佐古前町」がある。)
 【荒輪井町】あらわいちょう
   
 【乾出町】いぬいでちょう
   
 【長筬町】ながおさちょう
   
 【烏森町】かすもりちょう
   「からすもり」の転訛。
 【黄金通】おうごんどおり
   難読ではないが、一般通称名は「こがねどおり」。
   ※ 2017年6月13日から「こがねどおり」に町名変更
 【大門町】だいもんちょう
   難読ではないが、一般通称名は「おおもんちょう」。

5 「秀吉」関連地名
 中村と言えば「太閤秀吉」。
 しかしその生誕地は判明しておらず、いずれの地名もゆかりはない。
 【太閤通り】
 【太閤1〜5丁目】(但し、新町名)
 【千成通り】
 【豊国通り】
 【日吉町、日吉小学校】
 【豊臣小学校】
 【豊公橋】

6 中村区の名所旧跡(中村区の歴史)
【豊国神社】(とよくにじんじゃ)
 大阪や滋賀県長浜など各地にある豊国神社はたいてい「ほうこくじんじゃ」と称する。全部を調べたわけではないが、「とよくに」と称するのは、名古屋だけではないか。
(京都も「とよくに」であるらしいことが判明)
 豊臣家は徳川家の敵(家康は小牧長久手の戦いで敵対し、大阪夏の陣で命を落としかけた)であり、江戸時代は豊臣家を祀ることはご法度であった。特に徳川御三家の筆頭の尾張としては秀吉の名を口にすることも憚られたであろう。
 そのせいもあり、いろいろな説があるものの秀吉の出生地は"中村"という以外は確たる証しはない。
 農民のせがれ(いろいろな説がある)から天下をとる"大出世"をした秀吉を顕彰する目的で、徳川期が終わり1885年(M.18年)にその"生誕地?"に中村公園がつくられ、その中に神社を祀ったものである。
 ただ、最近の研究では、生誕地は"中中村の弥助屋敷"(現・中村中町2丁目付近)とする説が有力となっている。父の木下弥右衛門は「弥助」と呼ばれることが多かったという。
(豊国神社は小字名を"木ノ下屋敷"と言い、その地名から決めたらしい)
 中村公園の東隣には「妙行寺(みょうぎょうじ)」という寺があり、加藤清正が自分の生誕地に建立したという説話があるが確証はない。清正は秀吉の遠縁にあたる。
 中村公園の中には、中村図書館の2階に名古屋市の「秀吉・清正記念館」(入館無料)がある。
《余談》
 ここから南へ5kmほどの中川区前田には前田利家の出身地があり、ここから北西へ7kmほどのあま市(旧美和町)二ツ寺には、福島正則の出身地があり、さらにその西の蜂須賀には蜂須賀小六の出身地がある。
 その他、尾張部には戦国武将の出身地が数多くある。
 (山内一豊、池田輝政、堀尾吉晴、浅野長政、丹羽長秀ら)
 これらの"優秀な"武将たちは、覇者秀吉や家康により全国統治のため各地に移封されており、今、尾張はその残り(カス?)の子孫ばかりと、まことしやかに言われている。
【中村の大鳥居】
 1929年(S.04年)に名古屋市への合併(1921年)を記念して、豊国神社参道の入り口として、地元奉賛会が建造した大鳥居である。
 朱に塗られたコンクリート製の鳥居で、高さ24m、横幅34m、柱の直径2.4mである。1975年ころまでは鳥居として日本一の大きさを誇っていたが、他に抜かれた。
 1969年に「ジャスコ岡田屋」が入店した7階建「大鳥居ビル」が建設されるまでは、どこからでも見え、威容を誇っていた。(このビルは解体されて、今は新ビルになっている)
 1990年ころには老朽化が指摘され取り壊しの案もあったが、住民・企業から6千万円ほどの寄付を集め、1993年に補修された。
 区役所によると、この構築物「大鳥居」には特定の所有者がなく、「中村区民全体のもの」との解釈とのこと。(市、区は関知しない?)
 この鳥居から豊国神社までの参道には、「九の市」と称して毎月9・19・29日に露店が出て人々でにぎわう。

【名古屋駅前】
 超高層ビルが乱立し、名古屋市内で最近では最も発展(?)した地域である。
 名古屋駅西側では、まだ一部しか新町名移行は行われていないが、駅東は「名駅」、「名駅南」の町名となり、古き良き地名が消えた。
(禰宜町、花車町、水主町、若狭町、蘇鉄町、笹島町、広井町、など)
 江川線と堀川の間の町並みは、戦災被害がなかったため、今でもなつかしい感じのする地域が残っている。
 西区に多い「屋根神様」もある。

【佐屋街道】
 江戸幕府が定めた五街道のひとつに東海道がある。この東海道は「宮の宿(熱田)」から「桑名宿」までは「七里の渡し」として海上を舟で渡った。海路を指定された街道はここだけである。
 そもそも濃尾平野は河川の乱流地域であり、いくつもの川を渡し舟で越えなければならない。ならばいっそ海を渡ってしまったほうが早いとの発想であろう。
1980年頃の松並木
近鉄烏森踏切西
現在の松並木跡
 とは言っても、舟を嫌う人もあり、海が荒れることもあるので、補完的に東海道の脇街道として「佐屋街道」が指定され、尾張藩が管理した。
 (佐屋街道全般についての説明は、ここの趣旨と異なるので省略する)
 中村区内では烏森から岩塚までほぼ一直線に通っている。以前は所々に松並木も残っていたが、今はない。
岩塚宿(西方から)
 庄内川東側の「岩塚宿」(愛知郡)は、対岸の「万場宿」(海東郡)と2つで一つの宿として、月の後半と前半に分けてそれぞれ宿役を果たしていた。

【岩塚・七所社】七所社ホームページ
 岩塚には「七所社」という神社があり、毎年旧暦1月17日に祭りが開催される。
 この祭りは「きねこさ祭り」と言い、神事のクライマックスは庄内川の中に入って大きな笹竹を立て、厄年12人が支える中をひとりがよじ登って竹の倒れた方角で豊作凶作を占うものである。
 ちなみにこの「七所社」の南約200mのところに「八所社(八社)」がある。
 また、同じ「七所社」という名称で、同じく佐屋街道沿いの富田町千音寺の北部に神社がある。

【古代東海道、中世東海道】
古代東海道の痕跡
 平安時代にはこの中村区の真ん中を北西から南東にかけて「古代東海道」が通っていた。
 旧陸地測量部の大正9年測図の地形図には、中村区東宿町から中川区露橋町まで、ほぼ一直線の道路痕跡が認められる。
 現在この道路痕跡は大部分で消滅しているが、唯一中川区の豊成団地の北の交差点付近にはその痕跡とみられる地割が認められる。
 青い細線が古代道路の中心線と考えられる。
(この線は、百船町と九重町の境界線と一致している)
 名高速入口の歩道橋から南方向の写真。
 ほぼこの方向に古代道路が通っていたと推定される。
 平安時代の行政体系を記録した「和名抄」によれば、尾張国の宿駅は「馬津」「新溝」「両村」となっている。馬津は津島付近、新溝は中区正木町付近、両村は豊明市二村と推定されている。
 宿駅では、定められた頭数(東海道は各駅5頭)の早馬を維持管理し、いつでも公用に使えるよう準備しておくことが求められた。
 庄内川を渡るには、五条川が合流し1本になり、さらに下流になると庄内川は枝分かれを始めるため、現在の豊公橋あたりが適したであろう。
 (新川は庄内川の洪水を防ぐため江戸中期の天明7年(1787)に開削され、五条川は新川に合流させた。)

「萱津の東宿」説明板
「東宿明(みょう)神社」
 鎌倉時代になると、鎌倉幕府は各地に鎌倉街道を整備する。この鎌倉街道のうち東海道にあたる部分を「中世東海道」と呼んでいるが、稲沢方面から甚目寺町(現あま市)萱津(草津・カヤツ)を経て、庄内川を渡った。
 (庄内川は、古くは「萱津川」「枇杷島川」とも呼ばれた。)
 「古代東海道」「中世東海道」とも、中村区内のルートはさほど変わっていないと考えられている。
 鎌倉時代になるといろいろな人が書いた旅日記が残っており、「萱津宿」への宿泊を記録したものが多数残っている。また、「萱津宿」の対岸に「萱津の東宿」に市がたっていてたいそう賑やかだったとも書かれている。今の中村区「東宿町」か「宿跡町」あたりであろう。

女郎墓(じょろばか)宿跡町1丁目43
「萱津の東宿」の遊女たちの墓と
伝えられる。
花が手向けられ、地元の人の手厚
い供養が偲ばれる。
『尾張徇行記』(江戸末期)の稲葉地村の条
 古茶屋アリテ女郎ナトモアル由、サレハ東宿西古堤新田内三昧アリ、コヽニ女郎墓卜云所アリ、
  (注、三昧=墓場)
 コヽヲ古小栗衝道ト云、今ノ庄内川ヲ枇杷川ト云、下萱津村ノ銀杏ノ木アル所古渡場ノ由、万治年中ニ大川繰出ニナリ、古堤日比津稲葉地両村ノ間新田ヲ開墾セリ、
古ノ小栗街道ハコヽヨリ上中村米野村露橋村古渡村へカヽル、今ノ無三戸杁ノ辺古街道ノ由
 参考ページ:愛知県埋蔵文化財センター「中世萱津を考える」
 この鎌倉街道は、伝説小栗判官にちなみ「小栗街道」とも呼ばれる。

 米野村地籍図
1884年(M.17)作成
 古代交通研究会・元会長の(故)木下良先生の地籍図調査で、この古代東海道痕跡に沿って所どころ左右幅15mくらいの細長い地籍が発見された。
 これは東海道を設置した当初、道幅が15mくらいの直線道路であったものが、その後、不必要な道幅を削って畑にしたものと推測される。
 これらの痕跡は、全国各地の古代官道跡で検出され、古代の主要官道は山間部を除き、幅12m〜18mの直線路で、長さは30kmにおよぶもある。

 西区の美濃街道の直線路は、"清須越し"による名古屋城下建設に伴い開設されたものと思われる。
 よって信長が"桶狭間合戦"のため熱田神宮へ向かったのはこちらの東海道と考えられる。また1600年、家康が"関ケ原合戦"に勝利して引き上げたのもこの東海道であろう。
 参考:柳街道地図(明治31年)

【横井山緑地公園】
 庄内川はその昔、岩塚町あたりから大きく湾曲して蛇行していた。蛇行は川の流れを抑制するため、大雨のときは氾濫の原因にもなった。
赤:寛文 茶:明和
 江戸初期の寛文3年(1663年)ころに、この蛇行を解消すべく、横井山の西から中川区前田あたりまで真っ直ぐに開削した。
 さらに、江戸中期の明和5年(1768年)頃には、中川区大蟷螂(大当郎)から真っ直ぐ下之一色東側まで開削し、これにより横井山西から海まで一直線に流れるようになった。
   参考:鎌倉円覚寺の「富田荘絵図(14世紀頃)」
   (図中の「賀茂須賀」とあるのは、現大治町鎌須賀と思われる)
 それ以前の庄内川は、今の中川区との境界線のとおり大きく東に湾曲していた。その湾曲部の内側にあたるのが「横井山」である。
最高地に立つ清正堂
 おそらく庄内川が氾濫を繰り返すなかで、長い年月をかけて砂がたまったもので、さらに冬の北風の強い地域でもあり、風により砂丘が形成されたものであろう。
 江戸期には「尾張名所図会」にも掲載され、観光地となっていた。今でも桜の名所として知られる。

【中村遊廓跡】
 江戸期中期に尾張藩7代藩主徳川宗春は、幕府将軍の質素倹約令に反ばくするかのように、名古屋に芝居や歌舞音曲を奨励した。大須界隈にはいくつもの芝居小屋が建ち、遊郭もあって一大歓楽街を形成していった。
 大正時代になり、大須の遊廓街を移転させることとなり、その移転先が中村と決められた。
 1920年(T.09年)3月から田畑だったところを整地し、約300m四方を掘割で区画して遊廓を移転。1923年(T.12年)4月1日に開業した。この掘割から中へは未成年者は立ち入りできなかった。
 整地する時に土が必要になり、区画のすぐ西側から採土した。ここが池となり、遊里ヶ池(またを弁天池)となった。(この池は後に埋め立てられ、日赤病院が建てられた)
(大9年)区画掘割 (昭7年)遊里池 (昭13年)日赤病院
国土地理院 空中写真(USA-M158-A-6-12.jpg) 1946年6月7日、米軍撮影
 遊廓としては戦後まで続いた。
 戦後も映画館やパチンコ店、商店が立ち並び、"大門(おおもん)"という名で中村区の歓楽街となっていた。
 今も遊廓建物が一部に残っており、名古屋市の「都市景観建物」の指定を受けている。
旧遊廓「長寿庵(千壽)」 旧遊廓「松岡」 旧遊廓「稲本(稲本楼)」
(注)「長寿庵」は建て替えのため、2014年10月頃に解体された。
(注)「稲本」は建て替えのため、2018年09月頃に解体された。

 日赤1937年(S.12年)開院
日赤病院の旧建物 現在の日赤病院

【稲葉地配水塔・アクテノン】
 高さ31メートル、直径33メートルの円柱状の建物で、地上5階・地下1階。その周囲を直径1.5メートルの16本の柱が囲む。
 1937年(S.12年)に「稲葉地配水塔」として建設された。建物周囲に立つギリシャ神殿風の16本の柱は、当初から予定されていたものではなく、設計変更により急きょ屋上の配水タンクの容量を増やすことになったため、その補強として設置された。その結果特徴的な外観となった。
 1944年(S.19年)には加圧配水が可能となり、配水塔としての役割を停止した。わずか7年間のお役であった。
 その後は倉庫などとして使用されたが、改修され1965年(S.40年)に中村図書館となった。
 1991年(H.03年)に新しい中村図書館が中村公園内にでき、再び空き家となっていたが、1995年(H.07年)から「名古屋市演劇練習館・アクテノン」となった。この「アクテノン」は演劇のアクトと、外観イメージが似ているギリシャの「パルテノン神殿」から名づけられた。

【笈瀬川・笈瀬通り】
 この中村区から中川区にかけて、かつて伊勢神宮の領地があったと言われている。
 1889年(M.22)の明治の大合併の際、「牧野村」「米野村」「平野村」「露橋村」「日置村」が合併して、「笈瀬(おいせ)村」となった。
 (笈瀬村は1904年に町制をひき「愛知町」となる)
 この中を流れていた川を「お伊勢川(笈瀬川)」と呼んでいた。
 この川は、庄内川の支流の惣兵衛川から西区笠取町あたりで別れた支流で、名古屋駅西の「椿神社」の東側を通り、今の笈瀬通り(笈瀬商店街)を流れていた。
 この川は、そのまま南へ下ると「中川」とか「中ノ川」「中野川」とか呼ばれ、伊勢湾に注いでいた。
 この「中川」をまっすぐに開削し直し、幅を広くして運河としたのが、1930年(S.05)に完成した「中川運河」である。
 同時期に笹島貨物駅が整備され、「旧平野村」は操車場として立ち退きとなった。
 これらの一大事業にともない、この笈瀬川も暗渠化され上が道路となった。
 左の写真は、太閤通りと笈瀬通りの交差点。河童の像の後ろが椿神社方面(北方向)である。
 この笈瀬川には河童が住んでいたという伝説があり、笈瀬通り商店街は「かっぱ商店街」として振興をはかっている。


【向野(こうや)橋跨線橋】トラス部分は幅5.5m、長さ119m
 かつては米野村と北一色村(現・中川区愛知町)には、田圃の中を1本の道が通じていた。
 1895年(M.28)に私鉄関西鉄道(現JR関西本線)が開通したが、この道は踏切でつないでいた。
 線路は1907年(M.40)に国有化され、敷地を拡幅し、「国鉄名古屋機関区」として車両基地が整備された。
 この拡幅で踏切が長大になりすぎるため、かつて京都鉄道(JR山陰線旧路)の保津川にかかっていた鉄橋を再利用し、1930年(S.05)に架橋された。

 元々のこの橋は、"保津川下り"の障害としないため、また急流で工事が難しいために橋脚なしで川をまたぐようアメリカのA&Pロバーツ社に発注され、1899年(M.32)に保津川鉄橋として架橋された。
 (日本にはこの長さの橋梁技術がなかった。当時日本一の長い橋。)
 1922年(T.11)にこの保津川鉄橋上で脱線転覆事故が起こり、一部客車が川に転落し数名の死者をだした。
 傷ついた部分を修理してしばらく使用されたが、1928年(S.03)に新橋に架け替えられて名古屋へ運ばれてきた。  <==写真は、損傷修理箇所(左右にあり)
 最初の設置から110年余、ここに移設されてからさえも80年余、現在名古屋市の道路橋として管理されている。
 老朽化により耐荷重の心配があり、歩行者、自転車、原付以外は通行禁止となっているが、地元の人たちには必要とされている橋である。

【愛知県愛知郡愛知町の"愛知"駅】

(出典:Wikipedia)
 私鉄会社の"関西鉄道"は、三重県内の鉄道整備を図るため、四日市市に設立された。
 他社との関連で紆余曲折はあるものの、名古屋〜大阪の急行列車(当然蒸気機関車)を通す目的で、1895年(M.28)に名古屋〜草津間が開業した。
 名古屋の駅は、当初官設の東海道鉄道(現東海道線)の名古屋駅(現在の笹島交差点付近)を借り、乗り入れていた。
 しかし東海道鉄道が優先され、関西鉄道は思うような発着ができなかった。

(明治31年地図)
 そこで名古屋駅の300mくらい手前の愛知郡笈瀬村平野に駅を新設し、1896年(M.29)7月に「愛知」駅として折り返し運転ができるようにした。
なごやコレクション「愛知駅」写真
真宗高田派信蓮寺ホームページ「愛知駅」写真
 1904年(M.37)に笈瀬村が町制を敷き、その駅名に合わせて「愛知町」となった。
 (その後1937年(S.12)、中村区と中川区の創設により、愛知町は分断され一部が中川区に残る)
 1907年(M.40)に、主な鉄道は全て国有化されることとなり、関西鉄道も国有化(現関西線)された。
 国有化されれば東海道線と同格であり、近い2つの駅は不要となり、1909年(M.42)に名古屋駅に統合され、愛知駅は廃止された。駅舎は時計台もついた洋館造りの立派なものだったが、13年しか使用されなかった。

≪不確認情報≫
 この「愛知駅舎」はその後岐阜駅の駅舎として移築されたが、太平洋戦争の空襲で焼失したとのこと。

<=1919年「岐阜駅」(出典:Wikipedia)

【柳街道】

(明治31年地図)
 柳街道と呼ばれる街道は、尾張に2つある。
1、小田井から岩倉を経て、犬山までの街道
2、佐屋街道の烏森から高須賀、牧野を経て、柳橋までの街道

 ここでは2を解説する。

 なぜ"柳"街道と呼ばれるか、いくつかの説があり、
 1、街道沿いに柳の木が植えられていたから
 2、街道が通っている一帯が"柳"という荘園であったから
 3、今の中川区に「一柳御厨」という荘園があって、そこへ向かう道だから
 4、柳橋の辺りを"柳"と呼ばれており、そこへ向かう道だから
などと言われている。
 どれも決め手はないが、私は4が有力な説と考える。
 ・江川にかかっていた橋を"柳橋"と呼んでいたこと
 ・江川をはさんで、東柳町と西柳町があったこと
 ・近くに"柳里(りゅうり)神社"があること
 ・江戸期の"広井村絵図"によると、この道は「戸田道」とも書かれていること
が、主な理由です。
 ただ、j【笈瀬川・笈瀬通り】にも記したとおり、中村区から中川区にかけて伊勢神宮の荘園「柳の庄(荘)」があったと思われる。
 "御伊勢(笈瀬)"地名とともに、この辺りには柳小学校、柳瀬町、一柳町など、"柳"地名も多くある。
 したがって、2によることも考えられる。

未完成
<まだ作成途中です。>

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